八丈島へ⑦・・・宇喜多秀家公と八丈植物公園①
8月に訪れたオーストラリアの様子をUPしているところですが、ちょっとブレークして・・・
南原千畳岩にある宇喜多秀家公と豪姫の碑
伊豆諸島の最南端、東京から287キロの黒潮に浮かぶ南国情緒豊かな太陽と花と緑の島、八丈島。
豊臣五大老の一人で、岡山城主宇喜多秀家は、関ヶ原の戦いに敗北し、島津家・前田家の助命嘆願によっ
て死罪を免れ、1606年(慶長11年)八丈島に流罪となった。
八丈島は、江戸時代を通じて1800人以上の流刑者が送られたが、その最初が秀家一行であった。
秀家は、二人の息子など一行13人で渡島し、髪を下ろして「休福」と号し、1655年(明暦元年)84歳で亡くなる
までの50年間をこの島で過ごした。
八丈島歴史民族資料館には、備前岡山の漁船が八丈島に漂着し、この船頭と海岸の岩の上で釣りをしてい
た老人(秀家)との問答など、興味深い資料が多数展示されている。
秀家の墓は、流刑生活を送った八丈島の大賀郷にあり、当初は卒塔婆型の細長い石に「南無阿弥陀仏」の
名号を刻んだ墓石であったが、元禄年間に「尊光院殿秀月久福大居士」と諡号し、その後、高さ6尺の五輪
塔型の墓石に改められた。墓地を囲む石垣の上には、秀家が築いた岡山城天守閣の礎石の一部が運ばれ
設置されている。
秀家が流罪に決まった時、妻豪姫は同行を望んだが受け入れられず、実家前田家で余生を送ることとなっ
た。
前田家からは、1869年(明治2年)に一族が赦免されるまで、1年おきに白米70俵と金子35両、衣類、雑貨、
薬品など物資の仕送りが続けられた。
八丈島西岸に南原千畳岩と呼ばれる風光明媚な海岸がある。岡山城築城400年という節目の
年(平成9年)、秀家と豪姫の像が、この地に建てられた。二人は仲良く、岡山城の方角を見つめている。
11月7日(土)南原千畳岩から八丈植物公園へ |
38年ぶりの八丈島です・・・単身赴任中の知人がいるうちにと、今回の訪問となりました。 |
※写真をクリックすると、拡大してご覧いただけます。 |
宇喜多秀家・・・岡山県のホームページより |
豊臣五大老の一人で、岡山城主宇喜多秀家は、関ヶ原の戦いに敗北し、島津家・前田家の助命嘆願によっ
て死罪を免れ、1606年(慶長11年)八丈島に流罪となった。
八丈島は、江戸時代を通じて1800人以上の流刑者が送られたが、その最初が秀家一行であった。
秀家は、二人の息子など一行13人で渡島し、髪を下ろして「休福」と号し、1655年(明暦元年)84歳で亡くなる
までの50年間をこの島で過ごした。
八丈島歴史民族資料館には、備前岡山の漁船が八丈島に漂着し、この船頭と海岸の岩の上で釣りをしてい
た老人(秀家)との問答など、興味深い資料が多数展示されている。
秀家の墓は、流刑生活を送った八丈島の大賀郷にあり、当初は卒塔婆型の細長い石に「南無阿弥陀仏」の
名号を刻んだ墓石であったが、元禄年間に「尊光院殿秀月久福大居士」と諡号し、その後、高さ6尺の五輪
塔型の墓石に改められた。墓地を囲む石垣の上には、秀家が築いた岡山城天守閣の礎石の一部が運ばれ
設置されている。
秀家が流罪に決まった時、妻豪姫は同行を望んだが受け入れられず、実家前田家で余生を送ることとなっ
た。
前田家からは、1869年(明治2年)に一族が赦免されるまで、1年おきに白米70俵と金子35両、衣類、雑貨、
薬品など物資の仕送りが続けられた。
八丈島西岸に南原千畳岩と呼ばれる風光明媚な海岸がある。岡山城築城400年という節目の
年(平成9年)、秀家と豪姫の像が、この地に建てられた。二人は仲良く、岡山城の方角を見つめている。