青梅発デジカメ紀行

ヤフーブログから引越ししてきました。足腰が弱らないよう、週に数回は歩いているシニアです。ハンドルネームのラブのパパは、お星さまになった我が家の愛犬ラブからつけました。よろしくお願いします🤲

八丈島へ⑦・・・宇喜多秀家公と八丈植物公園①

8月に訪れたオーストラリアの様子をUPしているところですが、ちょっとブレークして・・・
11月7日(土)南原千畳岩から八丈植物公園へ
38年ぶりの八丈島です・・・単身赴任中の知人がいるうちにと、今回の訪問となりました。
※写真をクリックすると、拡大してご覧いただけます。
  南原千畳岩にある宇喜多秀家公と豪姫の碑
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宇喜多秀家・・・岡山県のホームページより
   伊豆諸島の最南端、東京から287キロの黒潮に浮かぶ南国情緒豊かな太陽と花と緑の島、八丈島
   豊臣五大老の一人で、岡山城宇喜多秀家は、関ヶ原の戦いに敗北し、島津家・前田家の助命嘆願によっ
   て死罪を免れ、1606年(慶長11年)八丈島流罪となった。
   八丈島は、江戸時代を通じて1800人以上の流刑者が送られたが、その最初が秀家一行であった。
   秀家は、二人の息子など一行13人で渡島し、髪を下ろして「休福」と号し、1655年(明暦元年)84歳で亡くなる
   までの50年間をこの島で過ごした。
   八丈島歴史民族資料館には、備前岡山の漁船が八丈島に漂着し、この船頭と海岸の岩の上で釣りをしてい
   た老人(秀家)との問答など、興味深い資料が多数展示されている。
   秀家の墓は、流刑生活を送った八丈島の大賀郷にあり、当初は卒塔婆型の細長い石に「南無阿弥陀仏」の
   名号を刻んだ墓石であったが、元禄年間に「尊光院殿秀月久福大居士」と諡号し、その後、高さ6尺の五輪
   塔型の墓石に改められた。墓地を囲む石垣の上には、秀家が築いた岡山城天守閣の礎石の一部が運ばれ
   設置されている。
   秀家が流罪に決まった時、妻豪姫は同行を望んだが受け入れられず、実家前田家で余生を送ることとなっ
   た。
   前田家からは、1869年(明治2年)に一族が赦免されるまで、1年おきに白米70俵と金子35両、衣類、雑貨、
   薬品など物資の仕送りが続けられた。
   八丈島西岸に南原千畳岩と呼ばれる風光明媚な海岸がある。岡山城築城400年という節目の
   年(平成9年)、秀家と豪姫の像が、この地に建てられた。二人は仲良く、岡山城の方角を見つめている。

  再びドライブ・・・見えている建物は、もう営業していない元ホテル(>_<;)
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  南国らしい道路が続きます・・・
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八丈島空港滑走路のすぐ南にある「八丈植物公園」
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  よく見ると、敷かれた石は八丈島を表しています(^o^)
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